別名 :一乗谷城
城郭構造 :山城
天守構造 :なし
築城主 :朝倉氏
築城年 :南北朝時代
主な改修者 :桂田長俊
主な城主 :朝倉氏、桂田長俊
廃城年 :1575年(天正3年)
遺構 :土塁、堀、虎口、石垣、礎石
指定文化財 :遺跡(特別史跡)、庭園(特別名勝)、遺跡出土品(重要文化財)
一乗谷朝倉氏遺跡(いちじょうだに あさくらし いせき)は、戦国時代に一乗谷城を中心に越前国を支配した戦国大名朝倉氏の遺跡。一乗谷城(山城)と山麓の城下町(朝倉氏および家臣の居館)からなる。
応仁の乱により荒廃した京から、多くの公家や高僧、文人、学者たちが避難してきたため一乗谷は飛躍的に発展し、華やかな京文化が開花した。このため北ノ京とも呼ばれた。戦国4代朝倉孝景の頃から全盛期を迎え、最盛期には人口1万人を超え、越前の中心地として栄えていた。
1567年(永禄10年)11月21日には戦国5代朝倉義景が足利義昭を安養寺に迎える。義景は義昭を歓待するが、同年7月24日、義昭は上洛を果たすため織田信長を頼って美濃国に出国する。
1573年(天正元年)8月16日、刀禰坂の戦いに大敗した義景は一乗谷を放棄し大野へ逃れる。翌日、信長の軍勢によって火を放たれ一乗谷は灰燼に帰した。この戦の功績により信長から守護代職を与えられた朝倉氏旧臣の桂田長俊(前波吉継)が一乗谷に館を構え、越前を統治していた。
1575年(天正3年)、信長が越前一向一揆を平定した後、越前八郡を与えられた柴田勝家は本拠を水運・陸運に便利な北ノ庄に構えたため、辺境となった一乗谷は田畑の下に埋もれていった。
2016年10月22日訪問
越前国分寺跡(武生)→一乗谷朝倉氏遺跡→福井城→丸岡城と、急ぎ足の訪問。
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一乗山城のお城地形区分は「山地」
●国土調査 地形分類図
●地理院地図 地形図+色別標高図