武田氏館(山梨県)

別名 :躑躅ヶ崎館(つつじがさきやかた) 

城郭構造 :連郭式平城

天守構造 :不明(天守台は残る)

築城主 :武田信虎

築城年 :1519年(永正16年)

主な改修者 :徳川氏、羽柴秀勝、加藤光泰

主な城主 :武田氏、河尻秀隆?、徳川氏、豊臣秀勝、加藤光泰、浅野長政

廃城年 :1594年(文禄3年)

遺構 :石垣、土塁、水堀、空堀、土橋、虎口、井戸、天守台、復元馬出し

指定文化財 :国の史跡

 武田氏館は、山梨県甲府市古府中(甲斐国山梨郡古府中)にあった戦国期の居館(または日本の城)。現在、跡地には武田神社がある。

 戦国時代に築かれた甲斐源氏武田氏の本拠地で、居館と家臣団屋敷地や城下町が一体となっている。信虎晴信(信玄)勝頼3代の60年余りにわたって府中として機能し、後に広域城下町としての甲府や、近代以降の甲府市の原型となった。

 勝頼期には1575年(天正3年)の長篠の戦いでの敗戦により領国支配に動揺が生じ、勝頼は領国体制の立て直しのため府中移転を企図し、家臣団の反対もあったが新たに新府城(韮崎市中田町中條)を築き、1582年(天正10年)には躑躅ヶ崎館から移転している。しかし、まもなく実施された織田氏の甲州征伐の結果、武田氏は滅亡した。

 武田氏滅亡後、河内領を除く甲斐一国・信濃諏訪郡を統治した織田家臣・河尻秀隆は躑躅ヶ崎で政務をとったとされるが、異説もある。同年6月本能寺の変後に入府した徳川家康によって改めて甲斐支配の主城とされ、館域は拡張されて天守も築かれた。1590年(天正18年)に徳川家臣の平岩親吉によって甲府城が築城されるや、その機能を廃されるに至った。以降、甲府は甲府城を中心とした広域城下町として発展した。

 Wikipedia

武田氏館訪問記

2017年7月15日訪問

日帰りで山梨県史跡巡り。この日甲府市の最高気温37.3度!

国分寺跡周辺→浅間神社(一の宮)→要害山城(続100名城)→武田氏館(100名城)→甲府城(100名城)

 

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●武田氏館縄張り図

余湖さんのホームページよりお城情報満載のHP。図の掲載許可いただいてます)

武田氏館周辺の地形を調べてみる

●地理院地図 治水地形分類図

 

●地理院地図 地形図+色別標高図