水戸藩:御三家 35万石 Wikipedia
藩主家の変遷:常陸は佐竹氏が豊臣秀吉によって支配をそのまま認められていたが、関ヶ原の戦いの際に佐竹義宣は徳川方に加担しなかったため、慶長7年(1602年)に出羽久保田21万石に減転封された。
佐竹氏の後、水戸城には下総佐倉藩より徳川家康の五男松平(武田)信吉が15万石で入ったが、翌1603年に信吉は21歳で病死した。信吉の死により翌月、家康の十男で当時2歳の長福丸(徳川頼宣)が新たに20万石で水戸に入封する。頼宣は、1609年に駿河・遠江・東三河(駿府藩)50万石を与えられて転封し、1619年には紀州藩55万石に転封した。頼宣は紀州徳川家の祖となった。
頼宣のあとに、頼宣の同母弟である家康の十一男で当時6歳の鶴千代丸(徳川頼房)が下総下妻藩より25万石で入った。頼房以降の藩主家を水戸徳川家と呼ぶ。水戸藩は徳川御三家の中でも唯一参勤交代を行わない江戸定府の藩であり、万が一の変事に備えて将軍目代の役目を受け持っていたともいわれている。
居城:茨城県水戸市 水戸城(馬場城、水府城) Wikipedia
城郭構造:連郭式平山城
天守構造 :なし (御三階櫓・独立式層塔型3重5階(1766年再)非現存)
築城主 :馬場資幹
築城年 :建久年間(1190年 - 1198年)
主な改修者 :佐竹義宣、徳川頼房
主な城主 :大掾氏(馬場氏)、江戸氏、佐竹氏 徳川氏
廃城年 :1871年(明治4年)
遺構 :薬医門1棟・藩校、土塁、空堀
指定文化財 :茨城県史跡、国の特別史跡(藩校)
幕末藩主:徳川慶篤(よしあつ 当時35歳)←最後の将軍・徳川慶喜の同母兄・長兄
戊辰戦争への対応:水戸藩では佐幕派と勤王派の内部抗争が激しく明治維新前に優秀な人材を多数失った。戊辰戦争では新政府軍に参加したが、一部佐幕派が会津藩と合流したためそこでも抗争が続いた。また箱館戦争には自主的に出兵を願い出た。箱館軍功賞典3500石。
2017年8月20日 2度目の訪問で100名城スタンプをゲット
前日ゴルフ後水戸駅近くに宿泊。
この日は、朝ジョギングで千波湖・偕楽園・三の丸周辺を巡る。
ホテルチェックアウト後に弘道館・大手橋・薬医門周辺を訪ねる。大手門を復元工事中だった。城跡通りが随分きれいに整備されたと感じた。
その後はレンタカーで、笠間城跡、常陸国分寺跡、土浦城跡へ。
2012年3月25日訪問
偕楽園の梅見のついでに旧弘道館を訪ねた後、水戸城跡付近をぶらぶら。
●フォトギャラリー 2017.08.20 ※クリックで拡大
弘道館から大手橋、薬医門へ
●フォトギャラリー 2017.08.20朝 ※クリックで拡大
千波湖から偕楽園、三の丸跡へ
●フォトギャラリー 2012.03.25 ※クリックで拡大
・偕楽園
・旧弘道館
・水戸城跡
・千波湖
●水戸城二の丸御三階櫓 ※参照:幕末日本の城(山川出版社)
天守を建てなかった水戸城では二の丸に城を代表する三階櫓を建設していた。
この櫓も戦災で焼け落ちた。
●地理院地図 土地条件図 初期整備版
土地条件図 数値地図25000
●地理院地図 地形図+色別標高図
●旧版地形図との比較 今昔マップon the web((C)谷 謙二)
左は明治後期の地形図。
千波湖の大きさが現在と全然違う! 大正の頃から埋め立てられたよう。
※画像クリックで拡大 ↓下の地図へリンク
●地理院地図 治水地形分類図
●国土調査 地形分類図
●J-Shis Map 微地形区分
●シームレス地質図
●G-Banz 標高グラフ