武蔵国 忍藩

戊辰戦争時の忍藩について

忍藩:家門 10万石 Wikipedia

居城:埼玉県行田市 忍城 Wikipedia

城郭構造:平城

開戦時藩主:松平忠誠(ただざね当時29歳)

藩主家の変遷:松平家(深水)→松平家(徳川)→幕領→松平家(大河内)→阿部家→文政6年(1823年)、松平家(奥平)が桑名から忍藩に入封して幕末まで続いた。

戊辰戦争への対応:鳥羽伏見の戦い時は、出兵はしなかったものの大阪にいた。幕府軍が敗れると紀州から江戸へ帰り、新政府軍が迫ってきた3月に恭順してその後東北に出陣することとなった。賞典金1万両。

忍藩訪問記

2014年9月14日

古代蓮の里→忍城址→さきたま古墳群と石田堤(石田三成が造ったという忍城水攻めの土塁)

忍城、水攻め、と言ったら映画「のぼうの城」。

 

●フォトギャラリー  ※クリックで拡大

・古代蓮の里

・忍城址

・さきたま古墳群

・石田堤跡

 

●忍城縄張り図

余湖さんのホームページより(お城情報満載のHP。図の掲載許可取得)

忍藩周辺の地形を調べてみる

忍城は広域的には利根川と荒川に挟まれた妻沼低地に位置する。下地図、治水地形分類図では「自然堤防」上に位置するが、周辺は台地、自然堤防、氾濫低地とも19m程度の標高で高低差は少ない。

お城地形区分は「低地自然堤防」


●地理院地図 治水地形分類図

治水地形分類図更新版

更新版では忍城跡周辺が段丘面となっている。なぜ自然堤防から変わったかは??

 

●地理院地図 地形図+色別標高図

 

●旧版地形図との比較 今昔マップon the web((C)谷 謙二)

左は明治初期の地図。秩父鉄道も国道125号もまだ通っていない。

忍城東側は現在の水城公園から北に水域が広がっている。

※画像クリックで拡大  ↓下の地図へリンク

 

●国土調査 地形分類図

上の治水地形分類図と比べると、地形区分は微妙に違う。なぜかは・・??


※参考:埼玉県の地形  出典:埼玉県環境管理指針