高取藩:譜代 2.5万石 Wikipedia
藩主家の変遷:大和国は戦国時代から安土桃山時代にかけて、織田信長に仕えた筒井順慶に支配されていたが、順慶の死後、天下の覇権を握った豊臣秀吉は、弟の秀長に大和を与えた。秀長は家臣の本多利久に高取1万5000石を与え、利久は高取城の整備・拡張に努めた。利久の跡を継いだ本多俊政は、秀長の死後は秀吉に仕えたが、関ヶ原の戦いの戦功により2万5000石に加増された。
寛永14年(1637年)、本多家は嗣子なくして断絶し、しばらくは桑山一玄(大和新庄藩)と小出吉親(丹波園部藩)による城番時代が続いた。
寛永17年(1640年)10月、徳川家の大番頭であった9,000石の大身旗本である植村家政が、2万5,000石に加増されて大名となり、再び高取藩が立藩された。以後幕末維新まで植村家の統治が続いた。
居城:奈良県高市郡高取町 高取城(芙蓉城、鷹取城、高取山城) Wikipedia
城郭構造:連郭式山城
天守構造 :連立式3重3階地下1階(非現存)
築城主 :越智邦澄
築城年 :元弘2年(1332年)
主な改修者 :筒井順慶、本多利久
主な城主 :越智氏、筒井氏、本多氏、小出氏、植村氏
廃城年 :明治6年(1873年)
遺構 :石垣、堀、井戸など多数
指定文化財 :史跡(国指定)
再建造物 :なし
幕末藩主:植村家保(いえやす 当時30歳)
戊辰戦争への対応:尊王派であった第13代藩主・植村家保は、戊辰戦争においては官軍側に与して京都御所の警備につく。その後、大和芝村藩主・織田長易と共に大和における旧幕領の取締りを行なった。
2017年12月11日訪問
奈良マラソンの翌日 キトラ古墳→国府神社→高取城跡→吉野金峯山寺
さすが日本三大山城! よくぞこんな山奥にこんな立派な石垣を。。。
●フォトギャラリー ※クリックで拡大
最初の3枚は城下町の土佐街道
お城地形区分は「山地」
●地理院地図 地形図+色別標高図
YouTubeより 奈良産業大学制作