播磨国 赤穂藩

赤穂藩について

赤穂藩:外様 2万石 Wikipedia

藩主家の変遷:播磨一国の国守である池田輝政の五男・政綱が3万5000石を与えられ赤穂藩が立藩した。

正保2年(1645年)、池田家は改易となり、代わって常陸国笠間藩より浅野長直が5万3000石で入部した。元禄14年(1701年)、第3代藩主・長矩(内匠頭)は江戸城中で高家旗本・吉良義央に斬りつける刃傷事件を起こし、長矩は切腹、浅野家は改易となった。そして元禄15年(1702年)に家臣による吉良邸討ち入りが起こった(赤穂事件)。

刃傷事件のあった元禄14年(1701年)に、代わって下野国烏山藩より永井直敬が3万2000石で入部する。しかし、5年後の宝永3年(1706年)には信濃国飯山藩へ転封となっている。

宝永3年(1706年)、備中国西江原藩より森長直が2万石で入部。幕末維新まで12代165年間、森家の支配が続いた。

 

居城:兵庫県赤穂市 赤穂城(加里屋城、大鷹城) Wikipedia

城郭構造:変形輪郭式平城

天守構造 :建造されず

築城主 :岡光広

築城年 :1466年(文正元年) - 1483年(文明15年)

主な改修者 :池田長政、浅野長直

主な城主 :池田氏、浅野氏、森氏

廃城年 :1873年(明治6年)

遺構 :石垣、堀

指定文化財 :国の史跡、名勝(本丸庭園、二の丸庭園)

再建造物 :櫓・門、庭園(復元中)

 

幕末藩主:森 忠典(ただつね 当時20歳)

戊辰戦争への対応:幕末には藩政の改革をめぐり保守派・革新派の対立が起こり藩内は分裂。革新派の一部は脱藩し長州藩へ奔った。文久2年(1862年)、攘夷派が保守派の家老を暗殺するという事件が起こり、藩論は分裂したままであった。

元治元年(1864年)の第1次長州征伐、慶応2年(1866年)に第2次長州征伐では幕府方として大坂警備を務めた。

慶応4年(1868年)1月、鳥羽・伏見の戦いで幕府軍が敗れた後の1月12日に新政府に与し、姫路藩が恭順した後の姫路城の警衛を命じられた。

 

赤穂藩訪問記

2018年11月2日訪問

岡山→赤穂城→明石城

このお城跡、大石神社も含めてとても広い!

 

●フォトギャラリー  ※クリックで拡大

赤穂浪士の町ですね。。

 

●赤穂城縄張り図

余湖さんのホームページよりお城情報満載のHP。図の掲載許可いただいてます

赤穂城周辺の地形を調べてみる

お城地形区分は「低地三角州」

●地理院地図 ベクトルタイル地形分類

 

●地理院地図 地形図+色別標高図