新宮藩:譜代 3.5万石 Wikipedia
藩主家の変遷:新宮は戦国時代、豊臣家の家臣・堀内氏善が領していたが、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いで西軍に与したために没落する。 その後、紀伊国に封じられた浅野幸長のもとでは浅野忠長が領していたが、浅野本家が安芸広島藩へ移封されると忠長も随伴した。その後、安藤家と共に、徳川頼宣の附家老として入った水野重央が、新宮に3万5000石を領した。 水野家の入部をもって紀伊新宮藩の始まりともされるが、幕藩体制のもとでは、身分はあくまで紀州徳川家の家臣であり、大名としては扱われなかった。藩として正式に立藩されたのは明治元年(1868年)のことである。
居城:和歌山県新宮市 新宮城(丹鶴城・沖見城) Wikipedia
城郭構造 :平山城
天守構造 :3層5階(非現存)
築城主 :浅野忠吉
築城年 :1618年(元和4年)
主な改修者 :水野重仲(重央)・水野重上
主な城主 :浅野氏・水野氏
廃城年 :1873年(明治6年)
遺構 :天守台・石塁
指定文化財 :国の史跡
開戦時藩主:水野 忠幹(ただもと 当時32歳)
戊辰戦争への対応:鳥羽・伏見の戦い後、旧幕府軍の敗残兵を藩内に受け入れていた紀州藩は新政府の嫌疑を受けたため、附家老の忠幹が弁明のために上洛し、1月14日に「3ヶ条の弁明」を提出している。同年1月24日、新政府の「維新立藩」により、忠幹は3万5,000石の大名として認められ、新宮藩を立藩している。
2020年2月1日訪問
紀州口熊野マラソン前日
橋杭岩→神倉神社→新宮城→赤木城(三重県続100名城)→熊野速玉大社→潮岬
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お城地形区分は「孤立丘陵」
●地理院地図 ベクトルタイル地形分類図
●地理院地図 地形図+色別標高図