近江国 彦根藩

彦根藩について

彦根藩:譜代 23万石 Wikipedia

藩主家の変遷:慶長5年(1600年)、上野高崎城主で12万石を領していた徳川四天王の1人・井伊直政が関ヶ原の戦いの戦功により18万石に加増され、石田三成の居城であった佐和山城に入封して佐和山藩を立藩した。直政は賊将・石田三成の居城を嫌い、琵琶湖の湖岸の磯山に新城建設を計画したが、建設に着手する前に戦傷が元で慶長7年(1602年)に死去した。嫡男直継(直勝)が相続すると現在彦根城が存在する彦根山に新城の建設が開始され、慶長11年(1606年)完成(すべての完成は1622年)し、彦根城に入城した。以後は江戸時代を通じて井伊家の支配が続いた。

 

居城:滋賀県彦根市 彦根城(金亀城) Wikipedia

城郭構造:連郭式平山城

天守構造 :複合式望楼型 3重3階地下1階(1604年築)

築城主 :井伊直継

築城年 :1622年(元和8年)

主な城主 :井伊氏

廃城年 :1874年(明治7年)

遺構 :現存天守、 櫓、門、塀、馬屋、石垣、土塁、堀

指定文化財 :国宝(天守等2棟) 重要文化財(櫓、門、馬屋等5棟) 特別史跡

再建造物 :御殿

 

幕末藩主:井伊直憲(なおのり 当時19歳) ←安政の大獄で有名な大老・井伊直弼の二男

戊辰戦争への対応:大政奉還後は譜代筆頭にもかかわらず新政府側に藩論を転向させた。翌慶応4年(1868年)の鳥羽・伏見の戦いでは、藩兵の主力は薩長の後方支援にあたり、大垣への出兵に際しては先鋒となった。戊辰戦争では明治政府に加わって小山や本宮など各地を転戦、近藤勇の捕縛にもあたった。戦後の賞典禄2万石

 

彦根藩訪問記

2017年4月27日訪問

琵琶湖周辺と、敦賀、小浜方面史跡巡りの初日。

彦根城→竹生島→小谷城→敦賀泊

 

●フォトギャラリー  ※クリックで拡大

 

●彦根城縄張り図

余湖さんのホームページよりお城情報満載のHP。図の掲載許可いただいてます

彦根城周辺の地形を調べてみる

お城地形区分は「孤立丘陵」

 

地理院地図 ベクトルタイル地形分類

 

●地理院地図 地形図+色別標高図

 

●旧版地形図

彦根城の北側にはかつてかなり広い潟湖のような松原内湖があった。戦争中の食料不足から昭和19年5月に干拓工事が始まり20年7月に完成したとか。

わたしたちの彦根・松原内湖のかんたく工事

 

米原にもさらに大きな入江内湖があった。こちらも昭和19年に干拓が開始され、昭和25年に完成。この地域は現在もほぼ水田のようである。

 

かつて琵琶湖周辺に存在した内湖の図 青色=干拓された内湖 水色=現存する内湖/水面

Wikipedia