和歌山藩:親藩 55.5万石 Wikipedia
藩主家の変遷:紀伊国は慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いの後、甲斐国主であった浅野幸長に与えられ、外様の浅野家の治める紀州藩が成立した。元和5年(1619年)の福島正則改易に伴い浅野家が安芸国・広島藩に移されると、それまで駿府藩主だった徳川家康の十男・徳川頼宣が浅野の旧領に南伊勢を加えた55万5千石で入部、紀州徳川家の治める親藩の紀州藩が成立した。
居城:和歌山市 和歌山城(虎伏城、竹垣城) Wikipedia
城郭構造:梯郭式平山城
天守構造 :連立式層塔型3重3階(1605年または1619年築・1850年再) 外観復元(1958年再)
築城主 :豊臣秀長
築城年 :1585年(天正13年)
主な改修者 :浅野幸長、徳川頼宣
主な城主 :豊臣氏、浅野氏、徳川氏
廃城年 :1871年(明治4年)
遺構 :門・塀、庭園、石垣、堀
指定文化財 :国の重要文化財(岡口門・続塀)
国の史跡 :国の名勝(西の丸庭園) 和歌山市文化財(追廻門)
再建造物 :天守、櫓、門、橋
開戦時藩主:徳川 茂承(もちつぐ 当時23歳)
戊辰戦争への対応:戊辰戦争が勃発した際、茂承は病に倒れていたが、御三家の一つである上、鳥羽・伏見の戦いで敗走した幕府将兵の多くが藩内に逃げ込んだため、新政府軍の討伐を受けかけた。しかし、茂承は病を押して釈明し、新政府に叛く意志はないということを証明するため、藩兵1500人を新政府軍に提供すると共に、軍資金15万両を献上した上、勅命により京都警備の一翼を担った。このため、新政府は紀州藩の討伐を取りやめたという。
2020年2月3日訪問
紀州口熊野マラソン翌日
田辺城跡→一の宮伊太祁曽神社→一の宮日前神宮・国懸神宮→
和歌山城→?紀伊国府跡→紀伊国分寺跡
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お城地形区分は「孤立丘陵」
●地理院地図 ベクトルタイル地形分類図
●地理院地図 治水地形分類図
●地理院地図 地形図+色別標高図