徳島藩:外様 25.8万石 Wikipedia
藩主家の変遷:豊臣秀吉股肱の臣で播磨国龍野を領していた蜂須賀正勝(小六)は、天正13年(1585年)の四国征伐の後に阿波国を与えられたが、高齢を理由に嗣子の家政に家督を譲り、家政が徳島藩主となった。同年、家政により徳島城が築造された。
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いで、家政は西軍により強制的に出家させられた上で高野山に追放され、阿波国は毛利家の軍勢が進駐して、その管理下に置かれた。その一方、家正の嗣子・至鎮(よししげ)は会津征伐に従軍しており、9月15日(10月21日)の本戦では東軍として参加した。この結果、戦後改めて至鎮に旧領が安堵されることとなった。この時より実質的に徳島藩が成立したと言えるため、家政は「藩祖」、至鎮を「初代藩主」として数える。以後、徳島藩の蜂須賀家による支配は幕末維新まで続いた。
居城:徳島県徳島市 徳島城(渭山城、渭津城) Wikipedia
城郭構造:梯郭式平山城
天守構造 :不明(1588年・非現存) 東二の丸御三階櫓(1615年以降)
築城主 :蜂須賀家政
築城年 :天正13年(1585年)
主な城主 :蜂須賀氏
廃城年 :明治2年(1869年)
遺構 :石垣、堀、庭園
指定文化財 :国の史跡、国の名勝(表御殿庭園)
再建造物 :鷲の門
幕末藩主:蜂須賀斉裕(なりひろ 当時46歳) ←徳川11代将軍・家斉の22男
戊辰戦争への対応:慶応4年(1868年)1月6日、藩主斉裕が急死した。斉裕の危篤から死去が鳥羽・伏見の戦いの最中であったことから、藩内は大混乱をきたした。斉裕の次男・茂韶(もちあき)が家督を継ぎ、その後の戊辰戦争では新政府側に与して奥羽にも兵を送ったが、相次ぐ藩内の混乱のため、新式のイギリス軍備を導入していたにもかかわらず少数の藩兵しか送れず、諸藩からの冷評を受けたとまで言われている。
2019年3月16日
徳島マラソンの前日。大歩危峡→かずら橋→徳島城。
復元鷲の門、大手門跡の写真を撮らなかったのが痛恨の極み。青っぽい石垣が目立つ。阿波の青石と呼ばれる緑泥片岩。
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お城地形区分は「孤立丘陵」
●地理院地図 ベクトルタイル提供実験 地形分類図
●地理院地図 地形図+色別標高図