大洲藩:外様 6.0万石 Wikipedia
藩主家の変遷:江戸時代初期の大洲は藤堂高虎の所領であり、大洲城主として丹羽長秀の子で高虎の養子の藤堂高吉が在城した。慶長13年(1608年)、高虎は伊勢国津藩に転封となったが、大洲は高虎預かりの地のままだった。同年9月、淡路国洲本藩より脇坂安治が5万3千石で入部し、大洲藩が立藩した。
その後、2代脇坂安元が元和3年(1617年)、信濃国飯田藩に転封となり、同年、加藤貞泰が伯耆国米子藩より6万石で入部した。以後、加藤家の支配が幕末維新まで続いた。
居城:愛媛県大洲市 大洲城(比志城、地蔵ヶ嶽城、大津城) Wikipedia
城郭構造:梯郭式平山城
天守構造 :複合連結式層塔型(1609年・非現存)(2004年・木造復元)
築城主 :宇都宮豊房
築城年 :元徳3年(1331年)
主な改修者 :藤堂高虎、脇坂安治、加藤貞泰
主な城主 :宇都宮氏、藤堂氏、脇坂氏、加藤氏
廃城年 :明治3年(1871年)
遺構 :櫓、石垣、堀
指定文化財 :国の重要文化財(台所櫓・南隅櫓・ 高欄櫓・苧綿櫓)、県の重要文化財(下台所)、愛媛県史跡
再建造物 :天守・多聞
幕末藩主:加藤泰秋(やすあき 当時22歳)
戊辰戦争への対応:大洲藩は勤王の気風が強く、幕末は早くから勤王で藩論が一致していた。このため勤王藩として慶応4年(1868年)の鳥羽・伏見の戦いでも小藩ながら参陣し、活躍した。
2019年4月21日
サザンオールスターズコンサート当日
大洲城跡・おはなはん通り・臥龍山荘→湯築城跡→松山城跡
●フォトギャラリー ※クリックで拡大
●大洲城縄張り図
★余湖さんのホームページより (お城情報満載のHP。図の掲載許可いただいてます)
お城地形区分は「孤立丘陵」
大洲の歴史、地理、街並みはこちらのHPがかなり詳しい →まちあるきの考古学
●地理院地図 ベクトルタイル地形分類図
●地理院地図 地形図+色別標高図