盛岡藩(南部藩):外様 20万石 Wikipedia
藩主家の変遷:天正18年(1590年)7月、「南部家中興の祖」とも呼ばれる南部家第26代南部信直(初代盛岡藩主・南部利直の父)が豊臣秀吉の小田原征伐に参陣しそのまま奥州仕置に従軍中、秀吉から南部の所領の内7ヶ郡(糠部郡、閉伊郡、鹿角郡、久慈郡、岩手郡、志和郡、そして遠野保)についての覚書の朱印状を得ることによって、豊臣大名として公認された。
慶長 5年(1600年)、関ヶ原の戦いで覇権を確立した徳川家康からもそのまま所領が安堵され、表高(軍役高)10万石の大名として認められた。以後幕末維新まで続いた。
居城:岩手県盛岡市 盛岡城(不来方城) Wikipedia
城郭構造:連郭式平山城
天守構造 :御三階櫓(1842年以降は天守) 不明3重(1633年築) 独立式層塔型3重3階(1676年再 非現存)
築城主 :南部信直
築城年 :1598年
主な改修者 :南部重直
主な城主 :南部氏
廃城年 :1871年
遺構 :石垣、土塁、堀、移築土蔵・門
指定文化財 :国の史跡
幕末藩主:南部利剛(なんぶとしひさ 当時48歳)
戊辰戦争への対応:藩内は新政府方・反新政府方に意見が対立していたが、最終的に楢山佐渡が藩論を奥羽越列藩同盟への参加継続で一致させ、津軽藩や出羽秋田藩に乱入したが敗退。9月24日、新政府軍に全面降伏。12月17日、反朝廷方であったとして 陸奥白石藩13万石に減転封を課せられた。
盛岡城跡には下記のほかに数回行っているが、まともに写真を取ったのは2017年3月だけ。
2017年3月22日訪問
出張で午後から会議の前に立ち寄り
2010年7月7日訪問
出張ついでに立寄るが、お城の写真はない。
●フォトギャラリー ※クリックで拡大
2017年3月22日撮影
盛岡駅から開運橋を渡り盛岡城址→プラザおでってで100名城スタンプ
→桜山神社、内丸緑地、石割桜
2010年7月7日撮影
この日は鬼の手形(三ツ石神社)、五百羅漢(報恩寺)、盛岡城跡へ。
お城地形区分は「台地先端」
盛岡の歴史、地理、町並みについてはこちらのHPがかなり詳しい まちあるきの考古学
●地理院地図 治水地形分類図
●地理院地図 地形図+色別標高図
●旧版地形図 ※昭和初期と思われる
下図の薄い水色の部分、現在の大通りから農林会館にかけては地形的に北上川の「旧河道」。この頃は水田であった。薄い赤色は盛岡城跡。