陸奥国 弘前藩

弘前藩について

弘前藩:外様 10万石 Wikipedia

藩主家の変遷津軽為信が、天正18年(1590年)7月の豊臣秀吉の小田原征伐に参陣して南部氏の領地を切り取る形で独立して、大名の地位を公認され、さらに、関ヶ原の戦いでは徳川家康に味方して藩の基礎を築き、以後津軽氏が江戸時代を通じて津軽地方一帯を治めた。

 

居城:青森県弘前市 弘前城(鷹岡城、高岡城) Wikipedia

城郭構造:梯郭式平山城

天守構造 :不詳5層(非現存・1610年築) 御三階櫓(複合式[1]層塔型3層3階・1810年改) 独立式層塔型3層3階(現存)

築城主 :津軽為信・信枚

築城年 :1611年

主な改修者 :津軽寧親

主な城主 :津軽氏

廃城年 :1871年

遺構 :現存天守・櫓・門、石垣、土塁、堀

指定文化財 :重要文化財 (天守・辰巳櫓・丑寅櫓・未申櫓・三の丸追手門・三の丸東門・二の丸南門・二の丸東門・北の郭亀甲門) 国の史跡

再建造物 :二の丸東門与力番所

 

幕末藩主:津軽承昭(つぐあきら 当時27歳)

戊辰戦争への対応:戊辰戦争では、当初奥羽越列藩同盟に属したが後に脱退、新政府に与して箱館戦争などで功績を挙げた。賞典録2万石。

 

弘前藩訪問記

2016年11月24日 弘前公園内緑の相談所で100名城スタンプを押印

雪が降った後で、趣の異なる弘前城を見ることができた。本丸石垣の修理中で、天守は西方向へ移動していた。

2015年6月26日 何度目かの訪問 本丸石垣の修理開始

田舎館村の田んぼアートを見て弘前城へ。その後岩木山神社、亀ヶ岡遺跡、旧金木町の斜陽館と忙しい一日だった!

2016年11月24日撮影 天守は本丸の門から見えるところに移動していた
2016年11月24日撮影 天守は本丸の門から見えるところに移動していた
2015年6月26日撮影 石垣修理のため天守を曳屋移動する前
2015年6月26日撮影 石垣修理のため天守を曳屋移動する前

 

●フォトギャラリー 2016.11.24  ※クリックで拡大

北門(亀甲門)から入り、東内門を通り天守へ。帰りは東門から出る。

 

●フォトギャラリー 2015.06.26  ※クリックで拡大

・弘前城 追手門から入り南内門を通り天守へ

・田舎館村の田んぼアート2015

田舎館村の田んぼアート2015

 

●弘前城縄張り図

余湖さんのホームページよりお城情報満載のHP。図の掲載許可いただいてます)

弘前城周辺の地形を調べてみる

お城地形区分は「台地先端」

弘前の歴史、地理、町並みについてはこちらのHPがかなり詳しい まちあるきの考古学

●地理院地図 治水地形分類図

 

●地理院地図 地形図+色別標高図

 

●旧版地形図(大正2年発行)

弘前駅(明治27年開業)周辺はまだ水田が目立つ

下図のような寺院の集中は江戸時代から続くとか。

禅林街は曹洞宗寺院のみだが、新寺町は様々な宗派の寺院が立ち並んでいる。