出羽国 山形藩

山形藩について

山形藩:譜代 5万石 Wikipedia

藩主家の変遷:もとは在地の戦国大名として山形を支配した最上家が、幕藩体制下では外様大名として57万石の大藩として治めた。

最上家が元和8年(1622年)改易となると、徳川家譜代の鳥居家保科家と続き、東北地方における徳川藩屏として君臨し、この時期の所領は20万石前後の中藩になった。

寛永20年(1643年)保科家が会津藩に移封されて幕藩体制が確立すると、山形藩は幕府重職から失脚した幕閣の左遷地となり、親藩・譜代大名の領主が12家にわたって頻繁に入れ替わった。弘化2年(1845年)最終的に遠江国浜松藩より水野家が入部し明治維新を迎えた。水野家は、天保の改革に失敗した水野忠邦が失脚したことによって、子の忠精が山形藩に左遷されたものだった。

 

居城:山形県山形市 山形城(霞城、霞ヶ城、吉字城) Wikipedia

城郭構造:輪郭式平城

天守構造 :なし(御三階櫓)

築城主 :斯波兼頼

築城年 :1356年(南朝:正平11年、北朝:延文元年)

主な改修者 :最上義光、鳥居忠政

主な城主 :最上氏、鳥居氏、堀田氏、秋元氏他

廃城年 :1871年(明治4年)

遺構 :石垣、堀、移築門、移築御殿

指定文化財 :国の史跡

再建造物 :二の丸東大手門、大手橋

 

幕末藩主:水野忠弘(ただひろ 当時13歳)

戊辰戦争への対応:山形藩は、周辺の米沢藩、仙台藩などとともに奥羽越列藩同盟に加わったが、同盟の主要な藩が降伏するなか山形藩も慶応4年9月17日(1868年11月1日)に新政府軍に降伏。2代藩主・忠弘は時に13歳と若年だったため、分家出身で当時26歳の家老・水野元宣が一切の責任を負って処刑された。明治3年(1870年)近江国朝日山藩に5万石で転封、以後は明治政府直轄の天領となったため、ここに山形藩は終焉した。

 

山形藩訪問記

2017年4月23日訪問

100名城スタンプを目的に、山形城→多賀城→仙台城、と訪問。

山形城はまさかの桜まっさかり。お花見客でにぎわっていた。

2010年11月1日訪問

出張のアポの間に訪問。まだお城にそれほど興味がない頃のこと。

2017年4月23日撮影 二ノ丸東大手門
2017年4月23日撮影 二ノ丸東大手門
本丸一文字門
本丸一文字門

 

●フォトギャラリー 2017.04.23  ※クリックで拡大

 

●フォトギャラリー 2010.11.01  ※クリックで拡大

 

●山形城縄張り図

余湖さんのホームページよりお城情報満載のHP。図の掲載許可いただいてます

山形城周辺の地形を調べてみる

お城地形区分は「低地扇状地」

山形市の歴史、地理、町並みはこちらのHPがかなり詳しい →まちあるきの考古学

 

地理院地図 治水地形分類図

 

●地理院地図 地形図+色別標高図