八戸藩:外様 2万石 Wikipedia
藩主家の変遷:寛文4年(1664年)、南部盛岡藩3代藩主・南部重直が嗣子を定めずに病没したため、幕府の命により遺領10万石を、重直の2人の弟、七戸重信の本藩8万石と、中里数馬(初代南部直房)の八戸藩2万石に分割した。将軍の裁定により成立した藩であるため独立した藩とされた。
居城:青森県八戸市 八戸城 Wikipedia
城郭構造:平城
築城主 :南部利直
築城年 :寛永4年 (1627年)
主な城主 :南部氏
廃城年 :明治4年(1871年)
遺構 :なし
指定文化財 :なし
幕末藩主:南部信順(のぶゆき 当時54歳)←第8代薩摩藩主島津重豪十四男(五男?)
戊辰戦争への対応:奥羽列藩同盟に参加するものの、藩主南部信順が薩摩出身だったこともあるのかほとんど日和見を決め込んだ。最後に野辺地戦争に巻き込まれるも懲罰なし。
八戸は連れ合いの実家でもあるし20代の頃住んでたところ。城跡の三八城公園ではお花見もしたし何度も行ってる。八戸城跡だとは全く認識が無かったけど・・・
以下の写真は2014年5月12日撮影。
●フォトギャラリー ※クリックで拡大
・八戸城跡(三八城公園)
・新田(にいだ)城跡
築城は南北朝の頃か。八戸藩五代藩主南部信興の隠居所だったと伝えられている。
八戸城は、北側に丸く突き出した台地のはじっこに位置する。北側と西側は結構な高低差がある。
お城地形区分は「台地先端」
●地理院地図 治水地形分類図
北側に砂丘が分布しているということはその南側は後背湿地のようなところで軟弱地盤か。この辺り地名は沼館。
●地理院地図 地形図+色別標高図で周辺地域の地形を見る
城跡の地名が内丸、その北側の低地が城下。なるほど・・
●地理院地図 治水地形分類図 ズームアウト
この地図で昔の馬淵川の蛇行のようすが何となく分かる。
下地図は1916年の地形図。馬淵川と新井田川が河口で合流していたようだ。
よく見ると、小中野村、沼館、石堂、河原木という集落がある。上の地図と比べると、小中野と沼館は砂丘の微高地の上に、石堂と河原木は自然堤防の上に分布していることが分かる。人間は少しでも地盤のいいとこ、災害の少ないとこに住む、ということ。
●J-Shis Map 微地形区分
八戸周辺の台地は火山灰土で覆われていた。
●シームレス地質図
●G-Banz 標高グラフ