陸奥国 会津藩

会津藩について

会津藩:家門 28万石 Wikipedia

藩主家の変遷:戦国時代、会津地方は後の会津若松である黒川を本拠とする戦国大名の蘆名家の領国であった。蘆名氏は会津守護を自称して勢威をふるったが、後継者争いや家臣団の権力闘争など内紛を繰り返して次第に衰微し、天正17年(1589年)6月5日、蘆名義広が摺上原の戦いで伊達政宗に大敗して、ここに蘆名家は滅亡して会津は政宗の支配下に入った。

天正18年(1590年)7月小田原征伐後、会津は蒲生氏郷の領地となった。文禄4年(1595年)2月に氏郷は急死し、嫡子の蒲生秀行が跡を継ぐが、慶長3年(1598年)1月に下野宇都宮18万石に減封・移封となった。 代わって会津に入部したのは、越後春日山城主の上杉景勝であり、蒲生旧領と出羽庄内に佐渡を加えた120万石で入った。

関ヶ原の戦い後、景勝は徳川家康によって出羽米沢藩30万石に移封され、代わって会津から宇都宮へ移っていた蒲生秀行が60万石に加増されて入部した。蒲生氏は寛永4年(1627年)1月に継嗣が無い事を理由に改易となり、その2月、伊予松山藩20万石から加藤嘉明が倍に加増された40万石で会津に入部した。

寛永20年(1643年)加藤家は改易となり、出羽山形藩より3万石加増の23万石で保科正之が入部、以後会津藩は会津松平家(保科家)の支配が定着した。

 

居城:福島県会津若松市 若松城(鶴ヶ城、会津若松城、黒川城) Wikipedia

城郭構造:梯郭式平山城

天守構造 :望楼型7重不明(1593年(文禄2年)築) 層塔型5重5階地下2階(1611年(慶長16年)改) 層塔型5重5階(RC造 1965年(昭和40年)外観復興)

築城主 :蘆名直盛

築城年 :1384年(南朝:元中元年、北朝:至徳元年)

主な改修者 :蒲生氏郷、加藤明成

主な城主黒川城 蘆名氏、伊達政宗 若松城 蒲生氏、上杉景勝、加藤氏、保科氏・会津松平家

廃城年 :1874年(明治7年)

遺構 :石垣、土塁、堀

指定文化財 :国の史跡

再建造物 :天守・門・櫓・長屋

 

幕末藩主:松平容保(かたもり当時32歳) ※美濃高須藩松平家出身。御三家尾張藩14代藩主徳川慶勝は実兄、伊勢桑名藩主松平定敬(さだあき)は実弟。

戊辰戦争への対応:京都守護職を引き受けたばっかりに貧乏くじを引き、薩摩に裏切られ長州に恨まれ、ついには逆賊呼ばわりされて討伐対象になった悲劇の藩。明治元年9月22日、会津藩降伏。

会津戦争終結後はさらに悲惨な斗南藩移住が行われた。松平春嶽に乗せられ、徳川慶喜に裏切られ、勝海舟に無視された。なんで誰も暖かい手を差し伸べてくれなかったんだろう。

25万石減封の上、斗南藩(青森県の下北、三戸地域)3万石へ移封。

会津藩訪問記

2018年6月14日

若松城→向羽黒山城(続100名城)→伊佐須美神社(新一の宮)→裏磐梯

※やっと100名城スタンプをゲット

2013年10月13日

以前若松城と飯盛山を訪ねたことがある。今回は会津戦争史跡を中心に日帰りで。

母成峠→土津神社→猪苗代場跡→十六橋→戸ノ口原古戦場→強清水→滝沢峠→飯盛山→小田山(西軍砲陣跡)→若松城周辺(会津戦争終結の地、西郷頼母邸跡、内藤介右衛門邸跡、日新館跡)→山本八重生誕の地(通過だけ)→中野竹子殉難の地(通過だけ)

※すっかり日が暮れて予定通りに行けなかった。おまけに帰りも大渋滞・・・

2018年6月14日撮影
2018年6月14日撮影
2013年10月13日撮影 道路奥に小さく見えるのが若松城
2013年10月13日撮影 道路奥に小さく見えるのが若松城

●フォトギャラリー  2018年6月14日  ※クリックで拡大

 

●フォトギャラリー  2013年10月13日  ※クリックで拡大

・母成峠

・土津神社

・亀ヶ城跡

・戸ノ口原古戦場跡

・白虎隊自陣の地

・小田山西軍砲陣跡

・若松城周辺

 

●鶴ヶ城縄張り図

余湖さんのホームページより(お城情報満載のHP。図の掲載許可取得

 

●若松城天守東南面之図1873年 国立公文書館HPより

明治6(1873)年12月、若松県(現在の福島県北部)権令沢簡徳は右大臣岩倉具視に、戊辰戦争で砲弾をうけ、その後修復もされずに雨ざらしになっている若松城は見るに堪えないので撤去し、後日改築してほしい旨建白しました。その際、現状を知らせるために提出したのがこの6枚のガラス湿板写真です。若松城は翌明治7(1874)年7月に解体されます。本写真の含まれる「公文附属の図」は、平成10年「公文録」とともに、国の重要文化財に指定されました。

会津藩若松城周辺の地形を調べてみる

会津藩若松城(鶴ヶ城)は会津盆地の東南に位置し、地形的には「扇状地」あるいは「低位台地」。
お城地形は「台地先端」 →としていたが、会津若松市街地は東の山地から流れる湯川、不動川等によって形成された扇状地ということで、「低地扇状地」に変更。(2016.07.18)

会津若松の歴史、地理、町並みについてはこちらのHPがかなり詳しい まちあるきの考古学

 

地理院地図 地形治水分類図 更新版

北に流れる阿賀川が広い扇状地と氾濫平野を作り、東西の山地から阿賀川に向かって流れる河川が山麓に段丘面(扇状地)を形成したのであろう。

 

●地理院地図 地形図+色別標高図

会津若松地域は南北に長い盆地上にある。阿賀川は北に向かって流れ、西に折れて新潟県に入ると、阿賀野川と名前を変えて日本海に至る。

 

地理院地図 地形治水分類図 初版

 

●国土調査 地形分類図

 

●J-Shis Map 微地形区分

 

●シームレス地質図

 

G-Banz 標高グラフ

東から西に向かって緩やかに下っている。扇状地的。