薩摩藩:外様 77万石 Wikipedia
藩主家の変遷:島津氏は、鎌倉時代初期に薩摩・大隅・日向3ヶ国の守護に任ぜられて以来、この地方を本拠地として来た守護大名・戦国大名であり、1587年(天正15年)に豊臣秀吉の九州征伐によって豊臣氏に服属、薩摩・大隅・日向の一部に跨がる所領の支配を認められた。
1600年(慶長5年)の関ヶ原の戦いでは西軍につくが、徳川四天王の一人井伊直政の取りなしで本領を安堵され、島津義弘の三男・家久が当主と認められた。この時点をもって正式な薩摩藩成立と見なすのが通説である。
居城:鹿児島県鹿児島市 鹿児島城(鶴丸城) Wikipedia
城郭構造:平山城
天守構造 :なし
築城主 :島津忠恒
築城年 :慶長7年(1602年)
主な改修者 :島津吉貴
主な城主 :島津氏
廃城年 :明治5年(1872年)
遺構 :石垣、堀、石橋
指定文化財 :鹿児島県史跡
幕末藩主:島津忠義(ただよし 当時27歳)
戊辰戦争への対応:1858年(安政5年)島津斉彬の死後、藩主・島津忠義の実父にして斉彬の異母弟にあたる久光が実権を握った。公武合体派として雄藩連合構想の実現に向かって活動するが、薩英戦争を経て西郷隆盛ら倒幕派の下級武士へ藩の主導権が移る。幕末には公武合体論や尊王攘夷を主張、その後長州藩と薩長同盟を結んで明治維新の原動力となった。戦後の賞典録10万石。
2019年3月2日訪問
鹿児島マラソンの前日、知覧城跡から鹿児島城跡へ。
マラソン翌日の4日に、仙巌園と尚古集成館へ。
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お城地形区分は「丘陵地裾地」
鹿児島の歴史、地理、町並みはこちらのHPがかなり詳しい →まちあるきの考古学
●国土調査 地形分類図
●地理院地図 地形図+色別標高図