備後国 福山藩

福山藩について

福山藩:譜代 11万石 Wikipedia

藩主家の変遷:福山藩は幕府が毛利氏などの中国筋の有力外様大名に対する「西国の鎮衛」として水野勝成に備後地方を与えたことに端を発する藩で、明治維新まで歴代有力な譜代大名が配された。

関ヶ原の戦い以降、後に福山藩となる備後国は安芸国と共に福島正則によって領有(49万8千石)されていた。しかし、正則は有名な広島城無断修築の咎で元和5年(1619年)に改易となり、領地は分割され、備後南部には水野勝成が10万石で入封した。勝成は入封と同時に福山城と城下町の建設に着手し、福山城は4年近い歳月を費やし元和8年(1622年)に完成した。

元禄11年(1698年)に水野家が改易となると、福山藩領は一時天領となり幕府から代官3人が派遣された。

元禄13年(1700年)、出羽国山形藩の松平忠雅が10万石で入封したが、宝永7年(1710年)に再び伊勢国桑名藩に転封となった。

正徳元年(1711年)、下野国宇都宮藩(10万石)から阿部正邦が10万石で入封し、以後、阿部氏は幕末維新まで続いた。この間老中を4人、大坂城代を1人輩出する。特に7代藩主・阿部正弘はわずか25歳で老中首座に就任し、日米和親条約を締結するなど著名である。

 

居城:広島県福山市 福山城(久松城、葦陽城) Wikipedia

城郭構造:輪郭式平山城

天守構造 :複合式層塔型5重6階(1622年、非現存) (1966年RC造復興)

築城主 :水野勝成

築城年 :1622年

主な改修者 :阿部氏

主な城主 :水野氏、松平氏、阿部氏

廃城年 :1874年

遺構 :櫓・門・鐘楼、石垣

指定文化財 :重要文化財(伏見櫓、筋鉄御門) 福山市指定重要文化財(鐘楼)

再建造物 :天守、月見櫓、御湯殿

 

幕末藩主:慶応3年(1867年)11月22日、第9代藩主阿部正方は病を悪化させ、福山城内にて20歳で死去したが、時局多端のためその死は秘された。数カ月後戊辰戦争最中の慶応4年(明治元年、1868年)5月20日、安芸広島藩から藩主浅野長勲の弟・浅野元次郎が養子として阿部正桓と名乗り、福山城へ入って跡を継いだ。

戊辰戦争への対応:鳥羽伏見の戦い後に長州藩の砲撃を受けてあっさりと新政府に恭順。各地に出兵を命じられ箱館戦争等で戦った。

福山藩訪問記

2017年11月13日訪問

岡山マラソンの翌日に、後楽園、岡山城、福山城を訪問。

 

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●福山城縄張り図

余湖さんのホームページよりお城情報満載のHP。図の掲載許可いただいてます

福山城周辺の地形を調べてみる

お城地形区分は「孤立丘陵」

 ●地理院地図 ベクトルタイル地形分類

 

地理院地図 治水地形分類図更新版

 

●地理院地図 地形図+色別標高図