備中松山藩:譜代 5万石 Wikipedia
藩主家の変遷:江戸幕府開府前の慶長5年(1600年)からしばらくは天領となっており、備中代官として小堀氏(小堀正次・小堀政一)が統治していた。
元和3年(1617年)、因幡国鳥取藩6万石より池田長幸が6万5000石で入封し、立藩した。寛永18年(1641年)、第2代藩主・長常が無嗣子で死去したため廃絶した。
寛永19年(1642年)、成羽藩より水谷勝隆が5万石で入封する。松山藩の藩政・経済の基礎、松山城の城郭普請は水谷時代にほぼ完成を見たと言ってよい。
水谷家(1642年 - 1693年)→安藤家(1695年 - 1711年)→石川家(1711年 - 1744年)→
延享元年(1744年)、伊勢国亀山藩より板倉勝澄が5万石で入封する。以後、明治まで板倉氏の所領となった。
居城:岡山県高梁市 松山城(高梁城) Wikipedia
城郭構造:連郭式山城
天守構造 :複合式望楼型2重2階(天和元年(1681年)改)
築城主 :秋庭三郎重信
築城年 :1240年
主な改修者 :三村元親、水谷勝宗
主な城主 :三村氏、水谷氏、板倉氏
廃城年 :明治7年(1874年)
遺構 :現存天守・櫓・塀、石垣、土塁
指定文化財 :重要文化財(天守、二重櫓、土塀) 国の史跡
再建造物 :櫓・門・塀
幕末藩主:板倉勝静(かつきよ:幕末の江戸幕府老中)
戊辰戦争への対応:勝静が幕府の要職にあったことから、鳥羽・伏見の戦いから1週間後には松山藩追討令が朝廷から出され、岡山藩の軍勢が藩主不在の松山城などを接収した。京都にいた勝静は徳川慶喜に従って江戸へ向かい、以後の戊辰戦争では旧幕府方に身を置いて、奥羽列藩同盟の参謀を務めた後箱館まで転戦した。戦後処分は5万石から2万石に減封。
2017年11月11日
岡山マラソンの前日にレンタカーで、津山城→美作国総社・国府跡→備中松山城→鬼ノ城を訪問。かなり忙しい行程だった。
2011年7月10日訪問
出張の翌日、岡山誕生寺、津山城、備中松山城、備中高松城、吉備津神社を訪問。
●フォトギャラリー 2017.11.11 ※クリックで拡大
●フォトギャラリー 2011.07.10 ※クリックで拡大
お城地形区分は「山地・丘陵地」
備中松山(高梁)の歴史、地理、町並みについてはこちらのHPがかなり詳しい まちあるきの考古学
●国土調査 地形分類図
●地理院地図 地形図+色別標高図