別名 :松尾城、末尾城
城郭構造 :連郭式山城
天守構造 :なし
築城主 :畠山満慶
築城年 :1428年 - 1429年(正長年間)
主な改修者 :畠山義綱、上杉謙信
主な城主 :畠山氏、上杉氏、前田氏
廃城年 :1589年(天正17年)
遺構 :郭、石垣、土塁、堀切、虎口、
指定文化財 :国の史跡
室町三管領家の七尾畠山氏の初代当主で能登国守護の畠山満慶が正長年間(1428年~1429年)頃にこの地に築いたと思われるが、当時の七尾城は砦程度の規模と見られ、行政府である守護所も府中(現七尾市府中)に置かれていた。次第に拡張、増強され、以後約150年間にわたって領国支配の本拠となり、五代当主である畠山慶致の頃には守護所も府中(七尾城山の麓)から七尾城へと移されたという。その後、畠山義続・畠山義綱の頃に能登では戦乱が続いたために増築され、最大の縄張りとなったと言われる。
1576年(天正4年)に能登国に侵攻した上杉謙信に包囲されるが、一年にわたって持ちこたえた。しかし、重臣同士の対立の末に擁立されていた若年の当主畠山春王丸が長続連、遊佐続光、温井景隆らの対立を収めることができず、結果七尾城は孤立し、最終的には遊佐続光の内応によって徹底抗戦を主張した長氏一族が殺害され、同年9月13日に開城された(七尾城の戦い)。
越中国と能登国を繋ぐ要所である七尾城は、のちに織田氏によって領され、城代として菅屋長頼が入って政務にあたった後に前田利家が入るが、既に山城の時代ではなく、拠点を小丸山城に移したため、しばらく子の前田利政が城主となっていたが、のち、1589年(天正17年)廃城となった。
2017年7月3日訪問
能登島ハーフマラソン参加の翌日に訪問
この日は、七尾城史資料館(休館日だがスタンプは玄関脇に置いてある)→七尾城跡→松本城
2013年7月2日訪問
能登島ハーフマラソン前日に訪ねるも、大雨のため七尾城跡入口で断念。城山展望台からも何も見えなかった。。
●フォトギャラリー 2017.07.03 ※クリックで拡大
●フォトギャラリー 2013.07.06 ※クリックで拡大
城山展望台 何も見えず。。
●国土調査 地形分類図
●地理院地図 地形図+色別標高図
地名に時代の名残があって興味深い。
古府町(ふるこまちと読む)、上古府、古城町、国分町、本府中町・・・
●地理院地図 都市圏活断層図