相模国 小田原藩

小田原藩について

小田原藩:譜代 11.3万石 Wikipedia

藩主家の変遷:1590年(天正18年)の小田原征伐で小田原の後北条氏が豊臣秀吉に滅ぼされると、徳川家康が関東に入部し、東国の押さえとして譜代の大久保忠世を小田原城主とした。大久保家は1614年(慶長19年)に改易となり、小田原城は破却され、以後5年間は番城となった。

その後は、阿部家(1619年 - 1623年) →番城 →稲葉家(1632年 - 1685年)→1686年(貞享3年)、下総佐倉藩主・大久保忠朝が10万3千石で入封した。大久保忠朝は小田原藩最初の藩主・大久保忠世の5代目にあたり、当時は幕府の老中であった。以後は幕末維新まで大久保氏の支配が10代続いた。

 

居城:神奈川県小田原市 小田原城(小峯城、小早川城) Wikipedia

城郭構造:平山城

天守構造 :複合式層塔型3重4階(1633年 築) (1706年 再) (1960年 RC造復興)

築城主 :大森頼春

築城年 :応永24年(1417年)

主な改修者 :上杉氏、北条早雲、大久保忠世、稲葉正勝

主な城主 :後北条氏、阿部氏、稲葉氏、大久保氏

廃城年 :1871年(明治4年)

遺構 :石垣、土塁、水堀、空堀、大堀切、土塁、郭、障子堀跡

指定文化財 :国の史跡

再建造物 :天守、門

 

幕末藩主:大久保忠礼(ただのり 当時26歳)

戊辰戦争への対応:戊辰戦争では、官軍に恭順して箱根の関所を明け渡したが、5月に林忠崇や伊庭八郎ら旧幕府軍の攻撃により官軍側が一時的に不利になると、旧幕府方に協力した。しかし、藩主忠礼は江戸に在府していた家臣の説得を受けて、自ら本源寺に謹慎して再び官軍に恭順した。戦後に裏切ったことを問題視され、明治元年(1868年)9月、蟄居の上、家督を養子の忠良に譲ることを余儀なくされた。7万5000石に減封

小田原藩訪問記

2018年10月7日訪問

休日に急に思い立って、寒川神社から小田原城へ。

二の丸跡では骨董市とおでん祭り開催中。10月にしては非常に暑い日だった。。

 

●フォトギャラリー  ※クリックで拡大

 

●小田原城縄張り図

余湖さんのホームページよりお城情報満載のHP。図の掲載許可いただいてます

小田原城周辺の地形を調べてみる

お城地形区分は「丘陵地先端」

小田原の歴史、地理、町並みはこちらのHPがかなり詳しい →まちあるきの考古学

 

●地理院地図 ベクトルタイル地形分類

 

●地理院地図 土地条件図(数値地図)

 

●地理院地図 地形図+色別標高図

 

●旧版地形図との比較 今昔マップon the web((C)谷 謙二)

画面4分割で明治から現在までの地図を比較してみる。

明治初期の地図では小田原城の堀がよく残っている。

1889年(明治22年)東海道本線が開業するが、当時は国府津駅から現御殿場線の経路だったため小田原を通っていない。小田原に駅ができたのは1920年(大正9年)。

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