佐倉藩:譜代 11万石 Wikipedia
藩主家の変遷:佐倉は江戸時代には江戸の東を守る要衝の地であり、徳川一族・譜代大名が入封する重要な藩であった。 江戸時代前半は、老中・大老となる幕閣の中心人物が入封し、罷免、致仕、失脚のたびに藩主の入れ替わりが激しい藩で、12回もお家変わりがあった。
徳川家康が関東入国後の文禄2年(1593年)、5男の武田信吉を4万石で佐倉に配置 →松平(長沢)家 →小笠原家 →土井家 →石川家 →松平(形原)家 →堀田家 →松平(大給)家 →大久保家 →戸田家 →稲葉家 →松平(大給)家 →延享3年(1746年)、堀田正亮(まさすけ:老中)が出羽国山形藩から佐倉藩に入封し幕末まで定着した。
居城:千葉県佐倉市 佐倉城(鹿島城) Wikipedia
城郭構造:連郭式平山城
天守構造 :御三階櫓(独立式層塔型3重4階 1616年 非現存)
築城主 :鹿島親幹
築城年 :天文年間か
主な改修者 :千葉邦胤、土井利勝
主な城主 :鹿島親幹、千葉邦胤、土井利勝、堀田氏
廃城年 :1873年(明治6年)
遺構 :堀、土塁
指定文化財 :佐倉市史跡
幕末藩主:堀田正倫(まさとも 当時17歳) ←幕末の老中・堀田正睦(まさよし)の四男
戊辰戦争への対応:正倫は、鳥羽・伏見の戦い後、上洛して慶喜の助命と徳川宗家の存続を嘆願したが、新政府から拒絶されただけでなく、京都に軟禁状態にされた。このため、藩主不在となった佐倉藩は危機を迎えたが、家老の平野縫殿が新政府軍に与して大多喜藩に出兵したため、何とか改易は免れた。
2016年6月4日
100名城スタンプを目的に二度目の訪問。本丸跡でのイベント開催と菖蒲まつりで大勢の人がいて賑やかだった。
2015年3月27日
仕事のついでに立ち寄り。平日で満開ではなかったが花見客がちらほら。
●フォトギャラリー 2016.06.04 ※クリックで拡大
●フォトギャラリー 2015.03.27 ※クリックで拡大
●地理院地図 ベクトルタイル提供実験 地形分類
●地理院地図 地形図+色別標高図
●旧版地形図
京成佐倉駅がまだない大正時代の地図 城跡は軍が利用している
鹿島川沿いの湿地帯がよく分かる
●旧版地形図との比較 今昔マップon the web((C)谷 謙二)
左は明治初期の地形図。JRも京成線もまだない。城のお堀が残っている。
この頃の低地はすべて水田だったようだ。
地図を北側に移動すると、干拓前の印旛沼が巨大だったのが分かる。
※画像クリックで拡大 ↓下の地図へリンク