宮津藩:譜代 7万石 Wikipedia
居城:京都府宮津市 宮津城 Wikipedia
城郭構造:平城
開戦時藩主:本庄宗武(むねたけ 当時21歳)
藩主家の変遷:慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦い後に細川忠興が豊前小倉藩へ移されると、丹後国には信濃飯田藩より京極高知が田辺城に入り(幕府に届出た正式な居城は宮津城)、丹後一国を領した(丹後藩)。のちに拠点を宮津城に移す。 後に嫡男の高広を宮津藩に、三男の高三を田辺藩(舞鶴藩)に、甥で婿養子の高通を峰山藩に入れ、丹後に3藩を並立させた。従って、実質的には高広より宮津藩が成立したといえる。
京極家→幕府領→永井家→阿部家→奥平家→青山家→
宝暦8年(1758年)、遠江浜松藩より松平資昌が7万石で入って、松平(本庄)家が幕末維新まで続いた。
戊辰戦争への対応:鳥羽・伏見の戦いでは、幕府方として八幡警備に出陣した部隊が新政府軍に発砲したため、朝敵とされた。これにより在洛していた宮津藩兵は武装解除され、1月10日、宗武は入洛禁止の処分を受けた。宗武が謹慎を解かれたのは5月23日であった。
2018年11月24日訪問
大阪マラソン前日
田辺城→宮津城→丹後国分寺跡→丹後国一の宮籠神社
※宮津城跡は、特にここに行けばというところがない。遺構は市街地に散在している。
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お城地形区分は「低地氾濫平野」
●国土調査 地形分類図
●地理院地図 地形図+色別標高図