宇和島藩:外様 7.0万石 Wikipedia
藩主家の変遷:戦国時代を経て、伊予は四国平定で功績があった小早川隆景の領土となるが、隆景は九州平定でも戦功を立て、筑前・筑後に新たな領土を与えられて移封となった。次いで同じく九州平定で戦功を立てた秀吉の家臣戸田勝隆が伊予大洲10万石(実際は7万石)の領主となり南伊予を支配した。また板島丸串城を改修して現在の宇和島城の概形を造った。
戸田勝隆は文禄3年(1595年)10月に狂死し、嗣子がなく戸田家は断絶した。 その後、宇和郡7万石の領主として秀吉の家臣藤堂高虎が入り、6年を費やして板島(宇和島)城築城工事を行った。高虎は慶長5年(1600年)9月の関ヶ原の戦い後、徳川家康より伊予今治藩20万石に加増移封され、さらに、慶長13年(1608年)に伊勢津藩22万石の藩主として加増移封された。
続いて、伊勢津藩5万石の藩主だった富田(とみた)信高が徳川秀忠から宇和郡10万1,900石を与えられて板島丸串城主として入ったことにより、宇和島藩が立藩する(ただし、富田信高の時代でなく伊達秀宗の入部をもって藩の始まりとする説もある)。
慶長18年(1613年)、富田家は改易となり宇和島は幕府直轄領となる。
慶長19年(1614年)、伊達秀宗が徳川秀忠より伊予宇和島藩10万石を与えられ、慶長20年(1615年)3月18日に板島丸串城(宇和島城)に入城したことから、宇和島藩が正式に成立した。その後伊達家の領国統治が幕末維新まで続いた。
尚、明暦3年(1657年)に宇和島藩の初代藩主・伊達秀宗の五男・宗純が宗藩より3万石を分知されて立藩した支藩の伊予吉田藩がある。
居城:愛媛県宇和島市 宇和島城(別名:丸串城、板島城、鶴島城) Wikipedia
城郭構造:梯郭式平山城
天守構造 :複合式望楼型3重3階(慶長6年(1601年)築、非現存) 独立式層塔型 3重3階(寛文11年(1671年)再、現存)
築城主 :西園寺公経
築城年 :嘉禎2年(1236年)
主な改修者 :藤堂高虎、伊達宗利
主な城主 :藤堂氏、伊達氏
廃城年 :明治4年(1871年)
遺構 :現存天守・門、石垣
指定文化財 :重要文化財(天守) 国の史跡 宇和島市指定有形文化財(上り立ち門)
幕末藩主:伊達宗徳(むねえ 当時38歳)
戊辰戦争への対応:最後の藩主は第9代伊達宗徳であるが、実権は「四賢侯」と謳われながら安政の大獄で隠居謹慎を命じられた伊達宗城が握っていた。
桜田門外の変後、宗城は表舞台に復帰し、孝明天皇に拝謁して国事に奔走した。以後、宗城は幕府と朝廷の間を渡り歩きながら幕末を駆け抜け、戊辰戦争では新政府の議定(新政府軍参謀兼務)に任命されたが、徳川慶喜が朝敵になると薩長の陰謀であるとして山内容堂とともに議定を辞任した。
以後、宗城は非戦中立の立場をとった。これは藩財政が枯渇し、町人や農民から献金を募らねばならないほどであり、また支藩の吉田藩主伊達宗孝(宗城の実弟)が佐幕派として行動したため宗城はその説得に当たらざるを得なくなっていたためであった。だが仙台藩13代藩主伊達慶邦が奥羽越列藩同盟の盟主となったために逆賊になると、縁戚にあたる(慶邦の養子は宗城の次男宗敦)宗城は仙台藩存続に奔走し、使者を送って降伏を勧めるなどした。
2019年4月22日
サザンオールスターズコンサート翌日
河後森城跡→宇和島城跡→天赦園
●フォトギャラリー ※クリックで拡大
●宇和島城縄張り図
★余湖さんのホームページより (お城情報満載のHP。図の掲載許可いただいてます)
お城地形区分は「孤立丘陵」
宇和島の歴史、地理、街並みはこちらのHPがかなり詳しい →まちあるきの考古学
●地理院地図 地形図+色別標高図