松本藩:譜代 6万石 Wikipedia
藩主家の変遷:戦国時代、松本は信濃守護小笠原氏の支配下に置かれていた。しかし小笠原長時が武田晴信(信玄)に敗れたため、以後は武田家の支配下に置かれた。
その後、武田家の滅亡、本能寺の変後の天正壬午の乱を経て、小笠原長時の孫に当たる秀政が、天正17年(1589年)1月に家康より正式に安曇郡・筑摩郡の松本領を安堵された。
天正18年(1590年)、秀政は下総古河藩3万石に移り、代わって石川数正が信濃松本10万石に加増移封された。数正と嫡男康長父子は松本城を近世城郭に改め、城下町の建設に務めた。
石川家改易後の慶長18年(1613年)11月、飯田藩より小笠原秀政が8万石で入った。秀政は古河3万石から関ヶ原後に2万石を加増されて飯田藩5万石に移封されており、今回はさらに3万石を加増されての久々の旧領復帰で一族家中は大いに喜びあったという。
小笠原家(1613年 - 1617年)→戸田松平家(1617年 - 1633年)→越前松平家(1633年 - 1638年)→堀田家(1638年 - 1642年)→水野家(1642年 - 1725年)→
享保10年(1725年)、水野家改易後の10月、かつて松本藩主であった松平康長の系統を継いでいた志摩鳥羽藩主の松平光慈(みつちか)が6万石で入り、以後戸田松平家9代が幕末維新まで続いた。
居城:長野県松本市 松本城(深志城、烏城) Wikipedia ※松本城天守は現存12天守の一つ。
城郭構造:梯郭式+輪郭式平城
天守構造 :連結式望楼型(1593年頃か1615年築) 複合連結式層塔型5重6階(1633年改)
築城主 :小笠原貞朝、石川数正・康長父子
築城年 :1504年(永正元年)
主な改修者 :松平直政
主な城主 :小笠原氏、石川氏、松平氏、堀田氏、水野氏、松平氏(戸田氏)
廃城年 :1871年(明治4年)
遺構 :現存天守、石垣、土塁、堀、二の丸土蔵
指定文化財 :国宝(天守) 国の史跡
再建造物 :黒門、太鼓門
幕末藩主:戸田光則(みつひさ 当時39歳)
戊辰戦争への対応:戊辰戦争においては佐幕か勤皇かで、なかなか藩論の一致を見なかったが、東征軍の松本到着の直前になって勤皇を選択し、新政府軍の一員として宇都宮城の戦いや北越戦争・会津戦争に参戦した。賞典禄3千石
2017年7月3日訪問
能登島ハーフマラソン参加の翌日に訪問
この日は、七尾城史資料館・七尾城跡→松本城(スタンプは有料エリアの管理事務所)
2013年9月15日
蓼科別荘地に行くも雨ですることなく、松本城見学。そばを食べて戻る。
2010年6月16日
出張で宿泊の翌朝ジョギングでお城周辺を見学。意外と小さな城との印象。
40年程前、高校生時代に見ているはずだが覚えてない・・
●フォトギャラリー 2017.07.03 ※クリックで拡大
●フォトギャラリー 2013.09.15 ※クリックで拡大
●フォトギャラリー 2010.06.16 ※クリックで拡大
松本城は、松本盆地の東端に位置する。地図によって微地形区分が微妙に違うが、東の山地から流れる女鳥羽川(めとばがわ)と薄川(すすきがわ)による扇状地性低地であろう。
お城地形区分は「低地扇状地」
松本の歴史、地理、町並みについてはこちらのHPがかなり詳しい まちあるきの考古学
●地理院地図 治水地形分類図
●地理院地図 地形図+色別標高図
●地理院地図 都市圏活断層図
松本市を南北に横断して糸魚川・静岡構造線(フォッサマグナ西縁)が通り、それに沿って活断層が存在する。
●国土調査 地形分類図