信濃国 小諸藩

小諸藩について

小諸藩:譜代 1.5万石 Wikipedia

藩主家の変遷:小諸は諸方に通じた交通の要衝であり、戦国時代には武田信玄と上杉謙信による争奪が繰り返された。

慶長8年(1603年)、徳川家康が江戸幕府を開き幕藩体制を開始した結果、仙石秀久小諸藩の藩祖となった。秀久といえば天正4年(1586年)の九州出陣で、軍監として無謀な作戦で豊臣軍大敗の原因を作り、秀吉に改易されている。その後、小田原征伐で功績を挙げ、天正18年(1590年)に秀吉から信濃国小諸5万石を与えられ、翌年に入封している。

仙石家(1590年 - 1622年)→甲府藩預かり支配(1622年 - 1624年)→松平(久松)家(1624年 - 1647年)→信濃松本藩預かり支配(1647年 - 1648年)→青山家(1648年 - 1662年)→酒井家(1662年 - 1679年)→西尾家(1679年 - 1682年)→松平(大給)家 (1682年 - 1702年)→

元禄15年(1702年)、越後国与板藩より牧野康重が1万5000石で入ることで、ようやく藩主家が安定し、廃藩置県まで藩主を務めた。

 

居城:長野県小諸市 小諸城(酔月城 穴城 白鶴城 鍋蓋城) Wikipedia

城郭構造:平山城

天守構造 :不明3重

築城主 :武田信玄

築城年 :1554年(天文23年)

主な改修者 :仙石秀久

主な城主 :武田氏、仙石氏、牧野氏など

廃城年 :不明

遺構 :大手門、三之門、天守台、石垣、 空堀

指定文化財 :重要文化財(大手門、三之門)

 

幕末藩主:牧野康済(やすまさ 当時26歳) ←長岡藩牧野家の分家

戊辰戦争への対応:譜代大名であったため去就に迷っていたが、慶応4年2月に新政府軍が信州まで来ると、どうすることもできず恭順と決定した。主に碓氷峠関所の守備が小諸藩兵の任務となり北越戦線への出兵は免除された。結果、戦争後の賞典禄は与えられなかったものの人命を失うことはなかった。

小諸藩訪問記

2017年4月15日

長野マラソンの前日、龍岡城→岩村田城→小諸城→信濃国分寺と訪問。

小諸城の中には入らず、大手門や本陣母屋、街並みを散策。

2014年9月1日

西軽井沢テニスの帰りに立ち寄り。小雨模様の中たっぷり見学。

小諸城址は、明治になって本丸跡に懐古神社が祀られたことにより「懐古園」と名付けられた。

2002年11月24日

長野の帰りに初回訪問、写真は無い。

2017年4月15日撮影 小諸城大手門
2017年4月15日撮影 小諸城大手門
2014年9月1日撮影 小諸城三の門
2014年9月1日撮影 小諸城三の門

 

●フォトギャラリー  2017.04.15 ※クリックで拡大

 

●フォトギャラリー  2014.09.01 ※クリックで拡大

 

●小諸城縄張り図

余湖さんのホームページより(お城情報満載のHP。図の掲載許可取得)

小諸城周辺の地形を調べてみる

小諸城は浅間山噴火による火砕流等が堆積した火山山麓地先端に位置する。西を流れる千曲川に向かって急崖となっており標高差は90m程ある。

お城地形区分は「台地先端」


●国土調査 地形分類図

 

●地理院地図 地形図+色別標高図

小諸城跡から浅間山頂上まで、直線距離13キロ、標高差1900m。


●シームレス地質図