上田藩:外様 5.3万石 Wikipedia
藩主家の変遷:上田は武田旧臣であった真田昌幸が、千曲川沿いに上田城(天正11年(1583年)着工)を築いたことから始まる。
慶長5年(1600年)の第二次上田合戦では、西軍に与して徳川秀忠軍3万2千を数千の兵で撃退したが、関ヶ原の戦いで西軍が敗れたため、昌幸・真田信繁(幸村)父子は紀州九度山に幽閉され、上田城は破壊される。 代わって東軍に与した嫡男の真田信之が父の領地を継承、信之は元和2年(1616年)に上田に移り、徳川体制下における上田藩9万5000石が成立した。
元和8年(1622年)、幕命によって信之は信濃松代藩へ移封されると、代わって、信濃小諸藩より仙石忠政が6万石で入った。現在残っている城は、忠政によって再建築城されたものである。
宝永3年(1706年)、仙石家が但馬国出石藩へ移封されて、入れ代わり出石藩から松平忠周が5万8000石で入り、以後藤井松平家が幕末維新まで続いた。
居城:長野県上田市 上田城(尼ヶ淵城) Wikipedia
城郭構造:梯郭式平城
天守構造 :不明
築城主 :真田昌幸
築城年 :1583年(天正11年)
主な城主 :真田氏、仙石氏、松平氏
廃城年 :1874年(明治7年)
遺構 :櫓、石垣、土塁、堀
指定文化財 :長野県宝(南櫓、北櫓、西櫓) 国の史跡
再建造物 :門
幕末藩主:松平忠礼(ただなり 当時17歳)
戊辰戦争への対応:藩主忠礼は鳥羽伏見の戦い後も佐幕を宣言していたが、官軍が来るとあわてて恭順、その後は新政府側に与して北越戦争、会津戦争に出兵した。賞典禄3千石。
2016年7月2日 二度目の訪問
大河ドラマ「真田丸」効果で人出が多い。
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お城地形区分は「台地先端」
●地理院地図 治水地形分類図 更新版
●地理院地図 地形図+色別標高図