出羽国 米沢藩

米沢藩について

米沢藩:外様 18.7万石 Wikipedia

藩主家の変遷:米沢は戦国時代の天文17年(1548年)から伊達家の本拠地であった。

天正17年(1589年)6月、伊達政宗は摺上原の戦いで蘆名家に大勝して同家を滅ぼし、以後蘆名家の本拠であった黒川城(会津若松城)を本拠とした。天正18年(1590年)の小田原征伐で政宗は6月に参陣して豊臣秀吉に臣従したが、秀吉の奥州仕置により再び本拠を米沢に移した。

天正19年(1591年)秋、政宗は大崎・葛西の旧領に移封され、伊達家の旧領は会津の領主であった蒲生氏郷の所領となり、氏郷は米沢に蒲生郷安を入れた。だが文禄4年(1595年)に氏郷が死去、嫡子の秀行が13歳で跡を継ぐが、慶長3年(1598年)3月、秀吉の命令で会津92万石から宇都宮18万石で減移封された。

蒲生家に代わって会津に入封したのは越後春日山城主の上杉景勝である。領地は蒲生旧領と出羽庄内に佐渡を加えた120万石であり、景勝は家老直江兼続に30万石を与えて米沢に入れた。

慶長5年(1600年)、徳川家康による会津征伐(上杉景勝征伐)が開始され、その後関ヶ原の戦いと続いた。景勝は、慶長6年(1601年)8月8日に結城秀康に伴われて伏見城において家康に謝罪した結果、8月17日に家康は上杉家の存続を許したが会津など90万石を没収して出羽米沢30万石へ減封した。こうして上杉家の支配による幕藩体制下の米沢藩が成立した。

 

居城:山形県米沢市 米沢城(舞鶴城、松ヶ岬城) Wikipedia

城郭構造:輪郭式平城

天守構造 :建造されず・御三階櫓2基(層塔型3重3階)

築城主 :伝・長井時広

築城年 :暦仁元年(1238年)頃

主な改修者 :伊達晴宗、蒲生郷安、上杉景勝

主な城主 :長井氏、伊達氏、蒲生氏 上杉氏

廃城年 :1871年

遺構 :土塁、堀

指定文化財 :なし

 

幕末藩主:上杉斉憲(なりのり 当時47歳)

戊辰戦争への対応:慶応4年(1868年)4月に江戸城の無血開城が成り、戊辰戦争がいよいよ東山道に波及し始めると、米沢藩はかつての保科正之への恩義もあることから会津藩と新政府軍の間に立って仲介に努めた。5月には奥羽越列藩同盟に加わって仙台藩や会津藩とともに新政府軍に対峙したが、9月4日に降伏した。米沢藩は戦後の処置で、4万石を減封されて14万7000石となった。

米沢藩訪問記

2013年6月8日訪問

この日の目的地は山形市。磐梯山、喜多方経由で米沢に立ち寄った。

米沢城跡(松が岬公園)→上杉家墓所→林泉寺(直江兼続墓所)

米沢城本丸跡は上杉神社境内となっている
米沢城本丸跡は上杉神社境内となっている

 

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●米沢城縄張り図

余湖さんのホームページよりお城情報満載のHP。図の掲載許可いただいてます

米沢城周辺の地形を調べてみる

お城地形区分は「低地扇状地」

地理院地図 活断層図

 

●国土調査 地形分類図

 

●地理院地図 地形図+色別標高図