陸奥国 福島藩

福島藩について

福島藩:譜代 3万石 Wikipedia

藩主家の変遷:福島は天正19年(1591年)まで伊達氏の領地であったが、豊臣秀吉により召し上げられて蒲生氏郷の支配地へと編入された。慶長3年(1598年)には会津120万石・上杉景勝の領地となり、旧領である伊達(梁川)・信夫(福島)の奪還を望む伊達政宗との対立から緊張が高まる時期には、福島城主として本庄繁長が上杉景勝から派遣された。 秀吉の死後、慶長5年(1600年)、景勝は関ヶ原の戦いに際して徳川家康に敵対し、米沢藩30万石(出羽置賜、陸奥伊達、信夫2郡)に減封され、置賜の米沢城を本拠と定めた。

寛文4年(1664年)、上杉家は無嗣断絶の危機を迎えたが、家名存続することを許され、その際、福島城を含む信夫郡等が幕府領とされた。

幕府直轄領となった福島は、その後、1679年(延宝7年)に本多忠国が大和郡山から福島15万石で入封し福島藩を立藩する。

本田家(1679年 - 1682年)→堀田家(1686年 - 1700年)→

元禄15年(1702年)、信濃坂木藩から板倉重寛が福島藩に3万石で封じられた。以後幕末維新まで板倉家の統治が続いた。

 

居城:福島県福島市 福島城(大仏城、杉妻城、杉目城) Wikipedia

城郭構造:平城

天守構造 :なし

築城主 :伊達氏?

築城年 :不明

主な城主 :伊達晴宗、木村吉清、本庄繁長、板倉重寛

廃城年 :1873年(明治6年)

遺構 :堀、土塁

指定文化財 :未指定

 

幕末藩主:板倉勝尚(かつなお 当時16歳) ←備中松山藩の板倉氏が宗家

戊辰戦争への対応:奥羽列藩同盟に参加するものの、新政府軍の二本松城攻めが始まると、藩主板倉勝尚と側近は米沢へ逃げた。さらに7月29日夕方、二本松城が落城するのを確かめると藩は開城を決めて藩士全員が藩主のあとを追った。(何か情けないというか、あわれというか・・小藩ゆえ・・)結局、戦ったのは白河の戦いぐらいで東軍の矢面に立って戦うことは少なかった。

→12月、藩主は隠居を申し渡され2000石減封。翌年三河国重原(現刈谷市)へ転封。

福島市が発展するのは明治になって県庁が置かれてから。

福島藩訪問記

2013年11月7日

福島藩から下手渡藩、二本松藩、三春藩、守山藩と回ってきた。福島城跡は福島県庁になっていて、石碑とわずかな土塁跡以外に面影はない。

二の丸の庭だった現在の紅葉山公園は除染作業で立入禁止。ここにも3.11地震と原発事故の影響が。

 

●フォトギャラリー  ※クリックで拡大

 

●福島城縄張り図

余湖さんのホームページよりお城情報満載のHP。図の掲載許可取得)

福島城周辺の地形を調べてみる

福島城は、福島盆地の南側東端、阿武隈川沿いに位置する。地形条件は地図によって台地や扇状地と微妙に異なるが、シームレス地質図を見ると沖積低地であることが分かる。従って台地といっても完新世のものであろう。

お城地形区分は「台地先端」

●地理院地図 治水地形分類図

等高線を見ると西から東へ続く扇状地にみえる。

 

●地理院地図 地形図+色別標高図

 

●地理院地図 都市圏活断層図

 

●J-Shis Map 微地形区分

 

●シームレス地質図

後期更新世・完新世の海成または非海成堆積岩類:約1万8000年前~現在までに形成された最も新しい時代の地層 → つまり沖積層が堆積している沖積低地

 

G-Banz 標高グラフ