島原藩:譜代 6.5千石 Wikipedia
藩主家の変遷:島原は戦国時代、有馬氏が治めていた。キリシタン大名の有馬晴信は関ヶ原の戦いで東軍に与して本領を安堵されたが、二代直純が慶長19年(1614年)、日向国県藩(延岡藩)に加増の上、転封となった。
その後しばらく幕府領となったが、やがて元和2年(1616年)、松倉重政が大和国五条藩より4万石で入り、彼の代に島原城が築かれ、政庁は日野江城からこちらに移った。
重政の後を継いだ勝家は苛酷な政治を敷き、キリシタンを厳しく取り締まったため領民の怒りが爆発し、寛永14年(1637年)に天草四郎を総大将として有名な島原の乱が起こる。領主の勝家は領民に反乱を引き起こさせた責任を厳しく問われ、乱の鎮圧後に斬首刑に処された。
松倉家(島原の乱後除封)→高力家(1638年 - 1668年)→深溝松平家(1668年 - 1747年)→戸田家 (1747年 - 1774年)
安永3年(1774年)宇都宮へ移封されていた松平氏が6万5000石で再び戻り、以後8代にわたって幕末維新まで続いた。
居城:長崎県島原市 島原城(森岳城、高来城) Wikipedia
城郭構造:連郭式平城
天守構造 :独立式層塔型4重5階(1626年築 非現存) 独立式層塔型5重5階(1964年RC造復興)
築城主 :松倉重政
築城年 :寛永元年(1624年)
主な城主 :松倉氏、松平(深溝)氏
廃城年 :明治3年(1871年)
遺構 :石垣、堀
指定文化財 :長崎県指定史跡
再建造物 :天守・丑寅櫓・巽櫓・西櫓(外観復元)
幕末藩主:松平忠和(ただかず 当時16歳) ←江戸幕府の第15代将軍徳川慶喜の異母弟
戊辰戦争への対応:慶応4年(1868年)1月からの戊辰戦争では新政府に恭順し、秋田藩や盛岡藩、雫石などに出兵している。賞典金5千両。
2016年5月1日訪問
島原というと、普賢岳噴火(1991年)のテレビニュース映像が思い出される。
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島原城跡は、数千年前の眉山の崩壊でできた流山の一つで、築城時(1618年)森岳と呼ばれていた高地を城のかたちに切り取って石垣を積んだ。※島原半島世界ジオパークHPより
都市圏活断層図の地形区分では「岩屑なだれ堆積面」。島状に周囲より一段高い。
お城地形区分は「孤立丘陵」
島原の歴史、地理、町並みについてはこちらのHPがかなり詳しい まちあるきの考古学
●地理院地図 都市圏活断層図
岩屑なだれ堆積面:山体崩壊等によって生じた大小さまざまな岩塊が流下して堆積した起伏のある土地
●地理院地図 地形図+色別標高図