唐津藩:譜代 6万石 Wikipedia
藩主家の変遷:文禄4年(1595年)豊臣秀吉の家臣・寺沢広高がこの地に封ぜられた。広高は慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは東軍方につき、肥後国天草郡4万石を加増され12万3千石の外様大名となった。慶長7年(1602年)より本格的な唐津城築城を行い、慶長13年(1608年)に完成した。
寺沢家( - 1647年)→大久保家(1649年 - 1678年)→大給松平家(1678年 - 1691年)→土井家(1691年 - 1762年)→水野家(1762年 - 1817年)→
文化14年(1817年)、陸奥国棚倉藩より小笠原長昌が6万石で入封、小笠原家の統治が幕末維新まで続いた。
居城:長崎県唐津市 唐津城(舞鶴城) Wikipedia
城郭構造:連郭式平山城
天守構造 :不明 複合式望楼型5層5階地下1階(1966年 RC造模擬)
築城主 :寺沢広高
築城年 :1608年
主な城主 :寺沢氏、土井氏、水野氏、小笠原氏
廃城年 :1871年
遺構 :石垣、堀
指定文化財 :なし
再建造物 :模擬天守、復元櫓・門・石垣・堀
幕末藩主:小笠原長国(ながくに 当時43歳)※実権:小笠原長行(ながみち 江戸幕府老中))
戊辰戦争への対応:長行は幕末期に老中を務めており、養父である藩主・長国も佐幕派であり、慶応4年(1868年)の戊辰戦争でも新政府に容易に与しようとしなかった。このため、唐津藩は近隣の諸藩から討伐対象となり、さらに朝敵の汚名まで着せられそうになったことから、長国は佐賀藩の前藩主鍋島直正を通じて新政府に降伏を申し出た。このとき、最後まで幕府に忠義を尽くして箱館まで転戦していた長行との養子関係を義絶している。
2016年4月28日訪問
ゴールデンウイークを利用して、佐賀県、長崎県を4泊して観光。
初日はあいにくの雨。。。
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天気が悪いと写真もかすむ・・・
●地理院地図 治水地形分類図 更新版
●地理院地図 地形図+色別標高図
●旧版地形図 昭和初期発行
現在の栄町はまだ干拓前の水部だった。
JR唐津線南側の平坦地はまだ田んぼだった。