佐賀藩:外様 35.7万石 Wikipedia
藩主家の変遷:天正12年(1584年)、龍造寺隆信は島原半島に於いて島津氏・有馬氏の連合軍との戦いで敗死した。その遺児である政家の補佐役として実権を握ったのが、重臣の一人であった鍋島直茂である。天正18年(1590年)には政家を廃してその子の高房を擁立、直茂はその後見人として豊臣秀吉より認められた。以後、鍋島氏は主家を圧倒することとなる。
慶長12年(1607年)、戦国大名の龍造寺本家が事実上絶え、家臣であった鍋島直茂が嫡男の勝茂に龍造寺家の家督を引き継がせる形で佐賀藩35万7千石を手にし名実ともに大名となった。慶長18年(1613年)幕府より勝茂に領地安堵の沙汰が出たことで安泰となった。
居城:佐賀県佐賀市 佐賀城(佐嘉城、栄城、沈み城、亀甲城) Wikipedia
城郭構造:輪郭梯郭複合式平城
天守構造 :4重(非現存)
築城主 :鍋島直茂・勝茂
築城年 :1602年(慶長7年)
主な改修者 :鍋島直正
主な城主 :鍋島氏
廃城年 :1871年(明治4年)
遺構 :鯱の門及び続櫓、移築御座の間、石垣、堀、土塁
指定文化財 :国の重要文化財(鯱の門及び続櫓)
佐賀県史跡 :佐賀市重要文化財(御座の間)
再建造物 :御殿(佐賀県立佐賀城本丸歴史館)
幕末藩主:鍋島 直大(なおひろ 当時21歳 父:鍋島直正(閑叟:かんそう))
戊辰戦争への対応:佐賀藩は、日本有数の軍事力と技術力を誇ったが、中央政局に対しては姿勢を明確にすることなく、大政奉還、王政復古まで静観を続けた。また、藩士の他藩士との交流を禁じ、国内でも珍しい「鎖国藩」といわれた。しかし1867年には藩主直大が新政府から北陸道先鋒に任命されて、佐賀藩兵も戊辰戦争に参加するために東上、江戸における上野戦争などで戦った。戦後の賞典録2万石。
2016年5月1日訪問
天守でなく本丸御殿を復元したのは渋い。しかも拝観無料、内容充実!
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お城地形区分は「低地自然堤防」
佐賀の歴史、地理、町並みについてはこちらのHPがかなり詳しい まちあるきの考古学
●地理院地図 治水地形分類図 更新版
●地理院地図 地形図+色別標高図