佐伯藩:外様 2.0万石 Wikipedia
藩主家の変遷:豊後国は鎌倉時代に大友家の支配下にあったが、その国入りの際に佐伯荘を支配していた地頭の大神姓佐伯家は大友に協力したため、大友家重臣に列して佐伯を任されていた。
戦国時代に大友家中では一族重臣の内訌が激化し、そして島津義久らの侵略を受けて衰退していくが、佐伯家は斜陽の大友家を支えた。
天正15年(1587年)、豊臣氏による九州征伐が開始され、島津軍は敗退降伏し、戦後、豊後1国は大友宗麟・義統父子に安堵された。
しかし文禄2年(1593年)5月、文禄の役での義統の敵前逃亡を咎められて大友氏は秀吉によって改易とされた。この時、佐伯惟定も義統に従い朝鮮に渡海していたが、主家の改易により浪人となり、佐伯家の佐伯支配は400年をもって終焉した。
その後、豊後国は豊臣氏の配下の大名や代官がそれぞれ分散配置されたが、文禄3年(1594年)、毛利高政が、蔵入地の代官として治めていた豊後国玖珠郡角牟礼城以下および日田郡日隈城以下の2万石(一説には6万石)を与えられて入封した。高政は朝鮮における活躍から慶長元年(1596年)、秀吉より日田郡2万石の所領の他、日田郡と玖珠郡にある豊臣家の蔵入地8万石と佐伯2万石の代官にも任じられた。
関ヶ原の戦い後慶長6年(1601年)4月5日、徳川家康の命令で高政は同じ石高での日田から佐伯栂牟礼城以下2万石に移封され、ここに佐伯藩が成立した。高政の入封当初、佐伯の中心となっていた栂牟礼城は奥まった土地にあったため、これに不便を感じ、番匠川河口の八幡山に新たに佐伯城を築き、麓に城下町を開いた(慶長7年(1602年)着工、慶長11年(1606年)竣工)。以後幕末維新まで毛利家の領国統治が続いた。
居城:大分県佐伯市 佐伯城(鶴ヶ城、鶴屋城、鶴谷城)Wikipedia
城郭構造 :山城
天守構造 :独立式望楼型3重(1606年・非現存)
築城主 :毛利高政
築城年 :慶長11年(1606年)
主な城主 :毛利氏
廃城年 :1871年
遺構 :三の丸櫓門、石垣
指定文化財 :県指定有形文化財(三の丸櫓門)
幕末藩主:毛利高謙(たかあき 当時27歳)
戊辰戦争への対応:藩主高謙は外交に巧みな人物で、幕命を受けて江戸佃島などの守備を行なう一方、朝廷の孝明天皇に対しても特産の和紙を献上して気脈を通じていた。慶応4年(1868年)、鳥羽・伏見の戦いで幕府軍が敗れた後、新政府軍に恭順を誓った。
2019年5月31日訪問
岡城→竹田湧水群→原尻の滝→佐伯城
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お城地形区分は「孤立丘陵」
●地理院地図 ベクトルタイル提供実験 地形分類図
●地理院地図 地形図+色別標高図