鳥取藩:外様 32.5万石 Wikipedia
藩主家の変遷:江戸時代を通し池田氏が治めた。 慶長5年(1600年)関ヶ原の戦いの後、池田恒興の三男(輝政の弟)の長吉が6万石で入封し、鳥取藩が立藩した。元和元年(1615年)嗣子・長幸の代に備中松山藩に転封となった。 同年播磨国姫路藩より、輝政の子・池田利隆の嫡男で池田宗家にあたる池田光政が32万石を与えられて入封した。光政は在封していた16年の間に鳥取城下町の基盤を整備した。寛永9年(1632年)備前国岡山藩主・池田忠雄(利隆の弟)が死去し、その嫡男で光政の従兄弟にあたる池田光仲が家督を継ぐと、幼少であることを理由に鳥取藩へ移封され、代わって光政が岡山へ入った。これ以後、池田氏の分家筋が因幡・伯耆国32万5,000石を治めることとなる。
居城:鳥取県鳥取市 鳥取城(久松城、久松山城) Wikipedia
城郭構造:梯郭式平山城および山城
天守構造:独立式望楼型3重(1573年頃) 複合式層塔型2層2階地下1階(1605年改)(非現存)
築城主 :但馬山名氏か?
築城年 :天文年間(1532年 - 1555年)
主な改修者 :吉川経家、宮部継潤、池田長吉
主な城主 :山名氏、吉川氏、宮部氏、池田氏
廃城年 :1871年(明治4年)
遺構 :石垣、堀、井戸
指定文化財 :国の史跡
再建造物 :城門、擬宝珠橋
幕末藩主:池田慶徳(よしのり 当時30歳)←水戸藩主・徳川斉昭の5男、徳川慶喜の異母兄
戊辰戦争への対応:幕末、12代藩主・慶徳は15代将軍・徳川慶喜の兄であったため、敬幕・尊王という微妙な立場をとった。藩内でも尊王派と親幕派の対立が激しく、文久3年(1863年)には京都本圀寺で尊王派藩士による親幕派重臣の暗殺事件(本圀寺事件)が発生した。翌年の禁門の変で親しい関係にあった長州藩が敗戦し朝敵となると、これと距離を置くようになるが、明治元年(1868年)の鳥羽・伏見の戦い、戊辰戦争では官軍方につき、志願農兵隊山国隊などを率いて転戦した。
賞典禄3万石。
2015年5月3日訪問
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